2016年9月16日金曜日
2016年8月31日水曜日
2016年8月22日月曜日
説教要旨 帰るべきところ
2016年8月21日 礼拝説教要旨 帰るべきところ
ルカ15:11-24
11〜13節
またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
ルカ15:11からの有名なイエス様のたとえ話は『ある人にふたり息子があった』という簡単な登場人物の紹介と、弟息子の衝撃的な申し出をもってはじまります。『お父さん。私に財産の分け前をください』息子は生存中の父に遺産の分配を要求しました。彼は父の財産を手にすると、すぐに遠い国に旅立ってしまいました。父は息子の自由意志を尊重し、無理にはとどめませんでした。しかしこの息子は父の思いをよそに、遠い国で、父の財産を湯水のように使い果たしてしまいます。この息子の姿は神から離れて生きる罪人の姿を表しています。
14〜19節
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
父の遺産を使い果たしてしまった息子は、ききんを経験します。いよいよ食べる物もなくなり、助けてくれる人もいなくなった時、彼の目には豚の餌さえも羨 ましいものとして写ります。この試練の只中で、彼は我に帰ります。忘れていた父の家を思い出し、ついに彼は家に帰ることを決断します。もはや息子として受け入れてもらえる望みはありません。でも、雇い人の一人としてなら迎え入れてもらえるかもしれません。
20〜24節
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。
20節から、驚きの展開が始まります。第一の驚きは、父が離反の息子を待ち続けていたということです。息子は変わり果てた姿であったでしょう。しかし、父には遠くからやって来るボロボロの青年が誰であるのかすぐにわかりました。第二の驚きは、父が彼を無条件で受け入れてくれたということです。父は走り寄って彼を抱き寄せました。中東の威厳ある老人は決して人前で走りません。待ち続け、走り寄る父の姿から言葉を超えた愛が滲み出ています。息子は事前に考えてきた言葉を述べますが、父は息子の言葉を途中で遮るようにして、彼を愛する息子として迎え入れると宣言します。このたとえを通して証されているのは、父なる神の無条件の愛です。この愛によって人は救われ、この愛に よって人は変えられます。神の愛(アガペー)とは、その対象に価値がある時だけに愛する愛ではありません。神の愛は、価値なき者をも愛する愛であり、愛された故にその者に価値が与えられていく特別な力を持つ愛です。(例話:ジャン・バルジャンを変えた司教の愛「レ・ミゼラブル」)この父なる神の愛こそが、私たちの帰るべき「たましいの故郷」です。
礼拝説教要旨 平和を造る者
2016年8月14日 礼拝説教要旨 平和を造る者
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
マタイ 5章9節
1)平和から遠く離れて生きる人々
「人類の歴史」は「争いの歴史」でもあります。20世紀前半には2つの世界を巻き込む戦争が勃発しました。太平洋戦争の3年8か月間、日本人も悲惨な戦争の日々を経験します。特に敗戦直前の広島・長崎への原子爆弾投下は癒しがたい傷跡を後世に残すことになりました(日本もまた世界に多くの傷跡と憎しみを生み出してしまいました)。日本は終戦を迎えましたが、いまも世界の様々な地域で争いが繰り広げられています。また新たな戦争の匂い、緊張感は常にあり、安全な国・地域は存在しません。『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり』との主イエスの御言葉の通りではありませんか。(マタイ24)
2)争いの根本原因
20世紀の2つの世界大戦の時代を生きた説教者ロイドジョンズは、世界大戦が起こった理由、絶えず国際間の緊張があり、次なる戦争・危機・不安が存在する理由はたった一つであると断言しました。なぜ人は争うのか、その理由はただ一つ「人の罪」です。人の強欲・利己性・自己中心があらゆる問題と不一致の根本的な原因なのです。それは国家間の戦争に限ったことではありません。
3)平和を造る人
主イエス・キリストこそ『平和を造る人』です。主は『平和の君』(イザヤ9:6)としてこの世界に来られ、その十字架によって平和を実現させてくださいました(イザヤ53:5、コロサイ1:20)。主イエスが築き上げてくださった平和は、第一に、神と人との平和でした。人の心に神の恵みが注がれ、満たされること、そこに平和造りの第一歩があり、根本的な解決があるからです。
4)神の子どもたちの生き方
すべてのキリストの弟子たちに『平和を造る者』としての生き方が期待されています。それこそが『神の子ども』としての生き方だからです。平和は、自分を中心とした生き方から離れ、神が教えてくださった無条件の愛を選択しながら生きるところに築き上げられていきます。その道を生きることは容易ではありません。神がその道に生きる力を私たちに与えてくださいますように、主が祈られたように生きることができますように。『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』(マタイ5:44)
例話:アウカ族にもたらされた愛
2016年8月17日水曜日
2016年7月21日木曜日
礼拝説教要旨 エマオの途上で
2016年 7月17日 礼拝説教要旨
エマオの途上で 〜 ルカの福音書24章13〜32 〜
13~16節
十字架にかかり、葬られたイエス・キリストが、三日目の朝に復活された日のことです。2人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かっていました。彼らは、この時点ではイエス様の十字架の意味を理解しておらず、復活の事実を信じることもできていませんでした。2人が一連の出来事について話している時、イエス様ご自身が近づいて、彼らとともに道を歩んでくださいました。キリストは、いつも私たちに近づいて、そしてともに歩んでくださるお方です。天の御座を離れ、人となってこの世界に来てくださる程に私たちに近づいて下さったお方です。しかし人は、このお方の存在に、その愛に気がつけないことが多くあります。
17~24節
イエス様は何も知らない者であるかのように、2人の話題を尋ねます。そしてその質問を通して、彼らの状況を明らかにされます。2人はキリストを力のあるお方であると認めていました。しかしそのお方の復活を信じる信仰には至ってはいませんでした。それ故に2人の目は遮られ、その心は悲しみに暮れていました。死の現実を前にした私たちは、そこに解決がない時、悲しみに暮れる他ありません。
25~27節
イエス様は2人の理解を踏まえつつ、順を追って、旧約聖書の御言葉に基づいて、ご自身の十字架と復活の意味を解き明かされました。旧約聖書に、先の時代に実現するキリストの贖いのみわざの詳細が明記されているという事実は、聖書の記述の確かさの証言でもあります。
28~32節
夕刻、もっと話しを聞いていたいと思った2人は、イエス様を無理に引き止めます。宿にて、食卓でイエス様がパンを取って祝福し、それを裂かれると、2人の目は開かれ、いま目の前にいるお方が、復活された主イエス本人であることがわかりました。
『道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』
キリストとともに歩む中で、聖書の御言葉の真理に目が開かれる時、私たちの心は暖かな感動で包まれます。このお方の暖かな愛と力強い真実に触れるからです。明らかにされていく十字架と復活の真実の物語に、神の救いのご計画と永遠のいのちの希望を見出すからです。
2016年7月12日火曜日
エルヴィスの歌声
今日、御茶ノ水のクリスチャンセンターに立ち寄りました。
面白そうなトラクト(短いパンフレット)があったので、調達してきました。
エルヴィスのトラクトです。
以前からYouTubeでエルヴィスの歌うゴスペルを聴くのが好きでしたが、彼のクリスチャンとしての背景を知ることができてよかったです。
こちらが子どもの頃から通っていた教会とのこと。
小さな教会ですが、素敵ですね。
少しだけ、リンクを貼っておきます。
いつもは派手なパフォーマンスが印象的なエルヴィスですが、やはり歌声も唯一無二ですね。
もともとはゴスペルシンガーになりたかったそうです。
トラクトが欲しい方は、教会でスタッフに声をかけてください!
2016年6月21日火曜日
礼拝説教要旨 心の貧しい者は幸いです
2016年 6月19日 礼拝説教要旨
心の貧しい者は幸いです 〜 マタイ5章3節 〜
1 幸いについて
『心の貧しい者は幸いです』(マタイ5:3)『 幸いです』と訳されている言葉の用法は旧約聖書に見られる『 幸いなことよ』という祝福の宣言と同じです。文語訳が上手に『 幸福なるかな、心の貧しき者』と訳しています。また「幸い」 と訳されている言葉(マカリオス)の本来の意味は「幸せ」 というよりも「祝福されている」という意味です。英訳聖書で「 ハッピー」ではなく「ブレセッド」と訳されている通りです(KJ V、NASB)。 本当の幸せは神との関係抜きには考えることができません。 神に祝福されていることこそが幸せなことなのです。
2 心の貧しい者とは
「心」と訳されている言葉は「霊・たましい」 を意味する用語が使用されています。『 霊において貧しい者は祝福されている』(抄訳聖書)。「 霊において貧しい者」とは、神の前に、 自分がまったく無力な存在であるということを自覚している人のこ とです。自分には自分を救う力がないということ、 神の助けがなければ生きることができない存在であるということを 知っている人のことです。自分のうちに希望を見出すのではなく、 神に希望を置く人のことです。ネイサン・ブラウンはこの箇所を『 心へりくだる者は幸いなり』と分かり易く訳しています。『 わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、 へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた心を生かすため
である』(イザヤ57:15)
3 天の御国はその人たちのものだから
霊において貧しい者はなぜ祝福されているのでしょうか?それは『 天の御国はその人たちのものだから』(マタイ5:3)です。 天の御国とは、 神の備えてくださっているすべての祝福を含む言葉です。 やがて訪れる天国の約束と、信じる者に今注がれている恵みを含みます。天の御国は、「御国」 「神の国」と同様の言葉で、コロサイ1:13『 愛する御子のご支配』とも同じ意味を持ちます(※御国=支配・統治)。 しばらく祈祷会で「ヨセフの生涯」を学びました。神の御手の中( 最善のご計画の中) で生きることの幸いと安心を確認する学びの時でした。神は、 ご自身により頼む者を保護し、最善をもって導き、 祝福してくださるお方です。神の祝福に与る人こそ、 天の喜びを知る幸いな人です。
2016年5月27日金曜日
時代が変わっても
所用があり静岡市街に来たので呉服町のスタバでPCを開いて作業をしました。
共同テーブルでコンパクトなコンピューターを使用して資料を作成している方がいました。
最初、大きなスマホか小さなタブレットかと思ったのですが、よく見ると電子辞書でした。そういえば10代の頃から神学生時代にかけてよく使っていたなぁと懐かしくなりました。
電子辞書がないと勉強もレポート作成もお話になりませんでした。
パソコンとスマホの普及に伴い、すっかり使用しなくなってしまった電子辞書ですが、帰宅してら机から出して触れてみようと思います。
使いはじめたばかりの頃は、小さな機械の中に、分厚い英語(英和も和英も)や漢字辞書、国語辞書も入った最先端のアイテムでした。それも今は懐かしのアイテムです。
時代の流れは速く、いま「最先端」と呼ばれているものもすぐに「遺物」扱いです。
そう思うと聖書は特別な書物であると思います。
確かに聖書を読むための方法は時代によって変わってきています。
印刷技術がなかった時代、聖書は、書写生によってパピルスや羊皮紙にススやゴムとを水で溶かしたものをインクとして書き記されました。高価な巻物や綴じ本に、丁寧に書き写されました。
15世紀、ヨハネス・グーテンベルクが印刷機を発明してからは、印刷技術が用いられて聖書が出版されるようになりました。
現代では、インターネットを通して、パソコン、タブレット、スマホで、いつでもどこでも聖書を読むことが可能になりました。
聖書を読む媒体は時代毎に変化しています。しかし、肝心の中身は、どんなに時代が移り変わっても変わりません。そして、素晴らしいことに、そのメッセージには、いつ読んでも新しい感動があるのです。永遠に変わることがない聖書の言葉が、新しい人生を指し示してくれるのです。
ペテロの手紙 第一 1章23〜25節より
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。
とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
2016年5月13日金曜日
青年キャンプに行ってきました
5/3-5 ゴールデンウィーク
待ちに待った青年キャンプに行ってきました。
今年のキャンプ会場は初・北海道です。
清水教会からは4名の青年で参加。
早朝6時のフライトで成田から新千歳に向かいます。
新千歳からはレンタカーを借りてキャンプ会場の深川へ向かいます。
途中札幌駅周辺に立ち寄り、美味しい味噌ラーメンを頂きました。
北海道のラーメンは熱々で超濃厚。
今回のキャンプの講師はオーストラリアの牧師ナビール・ゼイダン先生。
オーストラリアから来た青年たちとの交流も、喜びと励まし溢れるものでした。
素晴らしい3日間を神様に感謝します。
旭川市の上野ファームにいた鶏さん。
待ちに待った青年キャンプに行ってきました。
今年のキャンプ会場は初・北海道です。
清水教会からは4名の青年で参加。
早朝6時のフライトで成田から新千歳に向かいます。
新千歳からはレンタカーを借りてキャンプ会場の深川へ向かいます。
途中札幌駅周辺に立ち寄り、美味しい味噌ラーメンを頂きました。
北海道のラーメンは熱々で超濃厚。
今回のキャンプの講師はオーストラリアの牧師ナビール・ゼイダン先生。
オーストラリアから来た青年たちとの交流も、喜びと励まし溢れるものでした。
素晴らしい3日間を神様に感謝します。
旭川市の上野ファームにいた鶏さん。
2016年3月5日土曜日
イースターメッセージ その朝、弟子たちは変わった
イエス・キリストの復活の真実性は、 それがまぎれもない事実である故に様々な角度から証言できます。 最も感動的な証言は、1世紀に活躍した「イエスの弟子たちの姿」 であり、今も世界に影響を与え続けている「教会の存在」です。
しかし、彼らの「 イエスの弟子としての人生」は決して終わりませんでした。 それどころか、十字架の死から僅かひと月半しか経たない内に、 新たな働きが始まりました。教会による世界宣教の働きです。 弟子たちは命をかけてイエスを述べ伝えるようになったのです。
主の弟子たち(また懐疑主義者や最大の迫害者)の変 化を説明できるのは「主イエスの復活の事実」しかありません。 イエスが本当に復活し、そして彼らに御姿を現されたのです。 彼らは嘘をついたのではありません。 そのような嘘をついたところで何の得になりましょう。 彼らはイエスの復活を証言した故に殺されたのです。 そのような危険の中で彼らはイエスの復活を証言しました。
それは、復活がまぎれもない事実であり、 彼らはその事実を証しないわけにはいかなかったのです。『ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません』(使徒4:19-20)。
主イエスは本当に復活されました。
2016年2月24日水曜日
ヨセフ物語はいいねぇ
水曜日の夜の聖書研究会では創世記から「ヨセフの生涯」を辿っています。
いやー、いつ読んでも「ヨセフの生涯」は味わい深いですね。
教えられ、励まされ、慰められるメッセージが詰まっています。
先週、今週とエジプトに売られたヨセフのポティファルという人の家でのしもべとしての生活、無実の罪で投獄された監獄での生活の記録を読みました。
ヨセフがエジプトに来たのは17歳の時でした(37:2)。
ヨセフがエジプト王パロに仕える者となったのが30歳の時です(41:46)。
するとポティファルの家にいた期間は(しもべとしての生活・監獄での生活)、17歳から30歳の間「13年間」であることがわかります。私も丁度いま30歳なので、リアルな数字です。
赤ちゃんが生まれて、中学1年生になる位の期間です。
長い長い期間です……。
ヨセフにとってこの期間は紛れもなく試練の時期でした。
「主の時」を待つ必要がありました。
しかし、ヨセフはこの13年を単なる「不遇の時」として過ごしたわけではありませんでした。
しもべとしての日々も、監獄でも日々も、
ヨセフは主とともに生きました。
主の時を待ち続けながらも、与えられているいまという時を大切に、誠実に、積極的に生きました。
その結果、ヨセフにとって、ポティファルの家と監獄が、エジプトのどんな教育機関にも勝る学びの場(神学校)になりました。その置かれた場にあってヨセフは豊かに育まれていったのです。
ヨセフが神を求めて生きたからこそのことでもあります。
でも、その歩みの根底にあったのは、いつも変わらない神の臨在でした。
『主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた』(39:2)
『監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである』(39:23)
今日の聖書研究会では、ヨセフが人から忘れ去れてしまうという経験をした際の記録も読みました。
『ところが献酌管長はヨセフのことをおもい出さず、彼のことを忘れてしまった』(40:23)
しかし、それでも神はヨセフを忘れてはおられませんでした。
神がヨセフを忘れてしまうということは一瞬もありませんでした。
その事実がこの後いよいよ明らかになっていきます。
人から忘れてしまうことがあっても主は決してあなたを忘れてはおられません。
ヨセフとともにおられた神が、私たちともともにいてくださいます。
その恵みの事実に励まされながら、いまという時を生きていきたいと思います^^
いやー、いつ読んでも「ヨセフの生涯」は味わい深いですね。
教えられ、励まされ、慰められるメッセージが詰まっています。
先週、今週とエジプトに売られたヨセフのポティファルという人の家でのしもべとしての生活、無実の罪で投獄された監獄での生活の記録を読みました。
ヨセフがエジプトに来たのは17歳の時でした(37:2)。
ヨセフがエジプト王パロに仕える者となったのが30歳の時です(41:46)。
するとポティファルの家にいた期間は(しもべとしての生活・監獄での生活)、17歳から30歳の間「13年間」であることがわかります。私も丁度いま30歳なので、リアルな数字です。
赤ちゃんが生まれて、中学1年生になる位の期間です。
長い長い期間です……。
ヨセフにとってこの期間は紛れもなく試練の時期でした。
「主の時」を待つ必要がありました。
しかし、ヨセフはこの13年を単なる「不遇の時」として過ごしたわけではありませんでした。
しもべとしての日々も、監獄でも日々も、
ヨセフは主とともに生きました。
主の時を待ち続けながらも、与えられているいまという時を大切に、誠実に、積極的に生きました。
その結果、ヨセフにとって、ポティファルの家と監獄が、エジプトのどんな教育機関にも勝る学びの場(神学校)になりました。その置かれた場にあってヨセフは豊かに育まれていったのです。
ヨセフが神を求めて生きたからこそのことでもあります。
でも、その歩みの根底にあったのは、いつも変わらない神の臨在でした。
『主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた』(39:2)
『監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである』(39:23)
今日の聖書研究会では、ヨセフが人から忘れ去れてしまうという経験をした際の記録も読みました。
『ところが献酌管長はヨセフのことをおもい出さず、彼のことを忘れてしまった』(40:23)
しかし、それでも神はヨセフを忘れてはおられませんでした。
神がヨセフを忘れてしまうということは一瞬もありませんでした。
その事実がこの後いよいよ明らかになっていきます。
人から忘れてしまうことがあっても主は決してあなたを忘れてはおられません。
ヨセフとともにおられた神が、私たちともともにいてくださいます。
その恵みの事実に励まされながら、いまという時を生きていきたいと思います^^
2016年2月19日金曜日
イースター月間
しばらくブログはとまってしまっています…。ごめんなさいm(_ _)m
でも、教会は動いています。(HPで紹介しているすべての活動がアクティブですので、ご安心ください)
教会も年度末の時期になり、一年の歩みを振り返りつつ、新しい一年に向かおうとしています。
この一年も神様の祝福は豊かでした。
ここ数年、新しく教会に来られる方が沢山いらっしゃいます。すべての出会いが神様からの最高の賜物です。本当に嬉しいです。
新たな出会いにも期待しつつ、今年も3月にイースター月間を開催します。
トップページにチラシを掲載しましたので、ご覧ください。
どなたでも大歓迎です。お気軽におこしください^^
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』ローマ書8章28節より
でも、教会は動いています。(HPで紹介しているすべての活動がアクティブですので、ご安心ください)
教会も年度末の時期になり、一年の歩みを振り返りつつ、新しい一年に向かおうとしています。
この一年も神様の祝福は豊かでした。
ここ数年、新しく教会に来られる方が沢山いらっしゃいます。すべての出会いが神様からの最高の賜物です。本当に嬉しいです。
新たな出会いにも期待しつつ、今年も3月にイースター月間を開催します。
トップページにチラシを掲載しましたので、ご覧ください。
どなたでも大歓迎です。お気軽におこしください^^
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』ローマ書8章28節より
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